現代アートってなんなんだろう

先日、twitterで以下のような発言をしました。


この発言を、ほぼ日刊イトイ新聞(@1101complus)さんがリツイートしてくださったんですが、まあそのせいなんですが、そうだとしてもその後の反響がすごかった。

iPhoneの通知を入れっぱなしにしていたら、お気に入りとリツイートの通知で夜中じゅうバイブがブーンブーンブーンブーンいってました。

で、この一件を通じて感じたのが、「現代アート」を語ることがいかに難しいかということ。

アートフェアや地域の芸術祭が増加していて、いままで美術館やギャラリーは敷居が高いと感じていた人たちでも、現代アートに触れる機会が多くなっています。

これだけでも立派な成果ではあるのですが。

でもみんな、現代アートをただ見たり触れたりするだけで満足してるわけじゃないですよね。まあ、中にはSNSで共有するためのネタとして、そういうイベントに参加するってだけの人もいるんでしょうけど。

でも、人間の知的欲求はそんなもんじゃない。ぼくみたいに美術の専門教育を受けてない人であっても、みんな、その作品がそうやってそこにある意味を「わかりたい」と思っているはずです。

しかし現実問題として、多くの人が現代アートを見るための「ものさし」を持ち合わせてないんですよね。ぼくもやりがちなのですが、すぐに宗教や政治に引き寄せて考えちゃったりする。これは義務教育のなかで「美術」とはそういうものだと教えられて育ってきた貧しい鑑賞力のなせるわざに他なりません。

でも実際には、美術作家たちの興味の対象って宗教的教義や政治的意味にとどまるものじゃないんです。そんなに小さいことをやっていない。

創作活動というのは、作家がもっと「人間が生きる」という本質に迫ろうとして、「美術作家として生きていること」というのがその正体だと思うのです。

とすると、作品を観るということは、その人の「生き方」に触れるということですから、これはなかなか困難な作業です。他人の生き方を、長い時間と手間をかけて作り上げてきた自分の生き方に取り込むことは非常に難しい。

そこで必要になってくるのが、「作品を翻訳する人」だと思うんですね。

この点、作品を「噛み砕いて説明する人」ではいけません。噛み砕いちゃいけない。それは『アーホ!』のやりかた。ぼくたちが食べる頃には元の作品はおかゆになってしまっています。

元の作品にこめられている計り知れない作家本人のことばを、できるだけ正確に、真摯に、分かりやすいことばで説明する人がこれからは期待されてくるんじゃないか。

これって外国語の小説を日本語に翻訳するのといっしょですよね。

文学界ではいま、柴田元幸さんや岸本佐知子さんといった「スター翻訳家」が活躍されていますよね。

彼らがなぜ求められるのかというと、彼らの仕事ぶりというのは、海外小説という作品を、その作家の生き方を含めて正確に真摯に伝えようとするものであり、その能力と熱情をもって、この日本というユニークな島国の人たちにも伝えようとする能力に秀でているからに他ならないでしょう。

現代アートについても、潜在的需要はかなり掘り起こされてきていると感じます。とすると、あとは「スター翻訳家」の登場を待つばかりです。

その役目にふさわしいのは、学芸員だ、とぼくは思います。

評論家は美術の文脈の中にいて、どちらかというと作家とともに「人間の生き方」を追求していくほうの存在です。

これに対し、学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業についての専門的事項をつかさどる(博物館法第4条4項)有資格者であって、その職務内容は作品を鑑賞するひとたちの存在を前提としています。

そんな専門知識があり、ぼくらのほうを向いている学芸員であれば、「アートをわかりたい」というぼくたちの潜在的需要を満たすことができるのではないでしょうか。

現代アートの文脈を、一般のぼくたちが生きるために必要な本当の母語にしてくれる優れた学芸員もすでにいらっしゃいます。でもまだまだ「スター学芸員」と呼べる存在とまではいかないような気がします。

そろそろそういう人がメディアにでてきてもいいんじゃないかなあと素直に思う今日この頃。

 

ぼくも今後写真や現代美術について書くときには、「翻訳家」たることを心がけたいなと思います。


現代アート、超入門! (集英社新書)をAmazonで購入

コメントを残す

CAPTCHA