ふたつの命が出会ったとき、人生が作品になる // 榮榮&映里〈妻有物語〉@ミヅマアートギャラリー

榮榮&映里(ロンロン&インリ)は写真家ユニット。榮榮は中国人男性で映里は日本人女性。ふたりは夫婦であり、ふたりのあいだには子供が男の子ばかり3人いる。
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ふたりは1999年の立川国際芸術祭で知り合い、互いに惹かれあって写真の共同制作を始める。初期の頃は中国都市部の再開発など、移りゆく社会の風景を切り取るような制作をしていたが、やがて最初の息子が生まれ、また、北京・草場地に写真専門のアートセンターである「三影堂撮影芸術中心」を設立するようになって、制作の関心は家族や友人、生活など自分たちの身近にある光景に重点が移っていく。2011年に銀座の資生堂ギャラリーで開催された〈三生万物〉展では、そんなふたりの制作活動の変遷を回顧的に見せるものであったが、展示方法、展示空間、作品それ自体のバランスがとても良く、印象的な展覧会だった。自分が観た範囲では、個人的に2011年のベスト写真展だった。

そんな榮榮&映里が、現在、東京・市谷田町のミヅマアートギャラリーで〈妻有物語〉展を開催しているので行ってきた。本展は、2012年の越後妻有アートトリエンナーレで発表した作品に新作を加え、再プリント・再構成したものであるという。その越後妻有アートトリエンナーレを見逃し、2011年以降のふたりの制作活動を見逃していたぼくにとって、今回の展覧会はふたりのその後をうかがい知ることのできたまたとない機会だった。

実はずっと心に引っかかっていることがあった。〈三生万物〉展の、壁面3面を使って横にずらっと並べられた草場地シリーズの最後の一枚。いま当時のカタログを手にとって見ると、タイトルは〈草場地、北京 2011 No.1〉とある。草場地シリーズは、毎年同じ建物の前で撮影し、プリントに手彩色を加えた家族のポートレートシリーズなのだが、〈草場地、北京 2011 No.1〉は突如として彩色を加えないただのモノクロプリントとなり、その代わり、画面全体に白い花びら(桜か、梨の花か。モノクロなので形までしかわからない)が多重露出の技法で加えられているのだ。そして、自ら被写体となっている榮榮と映里のふたりは、やや背を合わせるような立ち位置で、互いに別々の方向に視線を向けている。この写真を最後にもってきた意図がどういうことだったのか、一見華やかなプリントのイメージとは裏腹に、ぼくはなんだか不安に駆られたのだった。

そんな不安を心に秘めながらの、2年遅れの〈妻有物語〉展である。鉄扉を開けてギャラリーに入ると、まずプリントの展示方法に目がとまった。角材を粗く削ったフレームに、ベニヤの板を貼り合わせて作った額に、プリントの上端だけを虫ピンで留めている。とても荒々しく物質感のある額装のしかたは、越後妻有という土地性、そして冬になると豪雪に閉ざされるこの世界の「つまり」で古の時代から草木たちと一体となって生きてきた人間たちの姿に思いを馳せさせる手法として、とてもふさわしいと思った。アートトリエンナーレでは、廃校となった体育館の天井から反物のように流れ落とした布地にプリントをほどこしたということだが、それはあくまで「祭り」仕様だったのだろう。

今回展示されている写真群は、すっかり観光名所にもなった「脱皮する家」の中でインスピレーションを得て撮影された着衣や脱衣のポートレート、雄大な里山を背景に家族の動静を捉えたスケールの大きな写真、雪の降り積もった露天温泉で、ふたりのそれぞれの初期の頃の写真を思い起こさせる、なにか痛みを抱えて叫んでいるような表情の映里のポートレート(何枚か続けて観ていくと、やがてそれはホワイトアウトするように構成されている)、水流・水泡と寄り添う裸のふたりを合成した写真とビデオインスタレーションの組作品など、どれも期待にたがわない見応えのある作品だった。

さて、それでは〈三生万物〉展からずっと引っかかっていたぼくの不安は解消されたのだろうか? 答えはノーだ。だって、榮榮が被写体となった写真(榮榮が撮ったか映里が撮ったかは不明)と映里が被写体となった写真(同じ)は、壁面の上段と下段、あるいは左右で向き合わせになるようにあえて「分かれて」展示されていたし、草場地シリーズのように家族5人が一緒になって映っている写真がまったくなかったからだ。もちろん、仲の良い家族を演出することは彼らの制作のそもそもの意図ではないだろうし、中国人と日本人、男と女といった差異を強調するような手法はかねてから採っており、今回もそのヴァリエーションにすぎないとも考えられる。でも、とはいえ、これはちょっと露骨すぎやしないだろうかと、ぼくはますます不安に駆られた。

しかし、その不安は次の小さな展示室に踏み入れたとき、すうっと水糸のように解消させられた。ミヅマの、特徴的な小上がりの畳敷きの展示室。その床の間の壁面にかけられた一枚の写真が、今回の展覧会でぼくが最も気に入り、また今後のふたりの創作活動に期待を抱かせる作品になった。

ふたりのおそらく一番有名な作品に、カメラに背を向け寄り添ったふたりが長い髪をまるでハート型のように編み合わせた〈無題 No.15 2008〉という作品がある。昨年、東京・六本木の森美術館で開催された〈LOVE展〉でも展示されていたから、ご存じの方も多いかと思う。ミヅマの和室に展示されていたその作品も、カメラに背を向け、肩を寄せたふたりが写っている。いやおうなく〈無題 No.15 2008〉を思い起こさせられる。しかし、ふたりはもはや長髪を結わき合ったりはしていない。代わりに、そこには多重露光で手彩色の黄金に実った稲穂のイメージが天地を逆さまにして重ねられているのだ。

その写真を目にして、ようやくぼくは気づいた。ふたりはもう髪を結わき合う必要性はないのだ。それは突きつけられた現実の世界に立ち向かうための、戦友としての行為だった。しかし、もはや現実の世界はふたりにとって立ち向かうべき存在ではなく、ときに過酷な自然の姿をまとって人間を試し、ときに黄金の稲穂として豊かな恵みをもたらすものとして、自分たちが謙虚に身を委ねる偉大な存在となっているのだ。国が違うとか、性別が違うとか、そういった特性はふたりが世界に対して相対峙するときには必要なものであったかもしれないが、もっと大きなものに身を委ねようとするとき、もはやそのような差異は何も意味をなさない。もはや愛するという行為を「見せる」ことさえ必要ないのだ。ふたりの事実上のアップデートだ。

本展のふたりのステートメントにはこう書かれている。「『天地呼吸して万物を生育也』古来より人の生死は天地と関わりを持つ。天地に従わない生死は後世に深い病を残す。雪の重圧の下で、深く息を潜める草木と同じ土壌に新しい生命も生まれ育っている。今日本に生きて、心に一点の曇り無く空を眺める事ができるだろうか。私達はその現実から目をそらすことができない」

榮榮&映里〈妻有物語〉展は来週7月12日土曜日まで。ふたりの次なる展開がますます楽しみになった。

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