私訳 ヴァルター・ベンヤミン「とりたての無花果」

『新潮』2016年6月号に掲載されていた、福田和也の「食うことと書くこと」に、ベンヤミンの「とれたての無花果」からの一節が引用されていた。

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ぼくにとって非常に興味深い引用だったので、ぜひ全文を読んでみたいと思ってアマゾンを検索したのだが、どうやら現在出版されているベンヤミンの著作にはいずれも所収されていないみたいだった。

そこで、海外サイトで引用されていた英語版の「Fresh Figs」を訳しながら読むことにした。で、せっかく時間を費やしたので、私訳ながら参考までにここに載っ
けておこうと思う。

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「とれたての無花果」 ヴァルター・ベンヤミン

 

食べ物を過度に摂取したことがない者は、摂食というものを本当に経験し、自分自身をそれに接触させたことがあるとは言えない。過度に摂食した経験がなければ、食事をせいぜい楽しむことはできても、食事を熱望するという境地には至らない。原初の欲望の森に導く、食欲という狭くまっすぐな道からの方向転換の方法を身につけることもできない。大食いとは、ふたつの意味を同時に含んでいる。欲望の無限性と、それを満足させる食べ物の画一性である。

 

大食いとは、何よりもまず、ひとつのものをその最後のかすまでむさぼり食うことなのである。

 

それは、単なる楽しみかどうか以上に、ひとが何を食べるかに深く影響していることは疑いがない。たとえば、モルタデッラをパンのように噛むとき、枕に顔をうずめるかのようにメロンに顔をうずめるとき、パリパリと音をたてる包み紙からキャビアをむさぼるとき、まるいエダムチーズを目の当たりに向き合うとき、ほかの食べ物の存在はきれいさっぱりと頭の中から消えてしまうことからもわかるだろう。

 

——私はこのことを最初にどのようにして学んだんだっけ?

 

それは、私がとても難しい決断——ある手紙を投函するか、ビリビリに引き裂くか——をしなければならなかった、ちょっと前に起こったことだ。私はその手紙をもう2日間もポケットに持ち歩いていて、しばらくのあいだそこにあることを忘れていた。そのとき、私はセコンディリアーノに向かう騒がしい狭軌の鉄道に乗っていて、乾いた風景の中を移動していた。その村は、平日の平穏さと静けさのなかで、厳粛なたたずまいを見せていた。前の日曜日の興奮をとどめているのは、回転花火のポールと、点火されたロケット花火の残骸だけだった。いまやそれらはむきだしのままさらされていた。そのいくつかは、ナポリの聖人や動物の像にその痕跡を残していた。女たちは納屋のなかに座って、とうもろこしの皮をむいていた。

 

私はぼーっとしながら村を歩いていた。すると、無花果を積んだ荷車が日陰に立っているのに気づいた。まったく退屈していたので、私は近寄っていき、半ポンドいくらの無花果を購入するという無駄遣いをした。女は気前が良すぎるくらいの量の無花果をはかりによそった。しかし、黒や青、明るい緑、紫、茶色の果実を天秤の皿に載せると、彼女はそれらを包む紙を持ってきてないことに気づいた。セコンディリアーノの主婦はみなカゴを持ってくるし、世界中を旅して回っているひとが来るなんて予想していなかったのだ。そして私のほうといえば、果実を捨てるには忍びなかった。

 

そこで私は、ズボンのポケットやジャケットの中に無花果を詰め込み、両腕と口の中を無花果でいっぱいにして彼女と別れた。私は無花果を食べることをやめられなかった。一刻も早く、このまるまるとした大量のくだものから逃れたかった。しかし、それを摂食と表現することはできなかった。それは、当時私が抱え込んでいた重荷のなかで、持ち物に染みこみ、手に染みつき、空気に充満していた松脂のにおいよりも、強烈なものを浴びせかけられたようだった。そして——ついには道にかがみ込んで——満喫と嫌悪に打ち勝ったあと、味覚の究極のピークがやってきた。目の前には、思いも寄らない味覚の風景が広がっていた。無味乾燥で、違いがわからなく、青臭い貪欲の洪水。果肉のすじばった繊維質以外のものは消失し、楽しみから習慣へ、習慣から悪習へと完全に変化を遂げていた。

 

突如として、これら無花果に対する嫌悪がわきおこってきた。私はこれを終わらせ、自分自身を解放し、この熟しすぎてはち切れそうになった果実から自分を逃れさせたくてたまらなくなった。私はそれを破壊するかのごとく食べた。咀嚼は、その最も根源的な目的を再発見したようだった。最後の無花果をポケットの奥から取り出したとき、私はそれにあの手紙が貼りついていることに気がついた。運命は決まったのだ。手紙は、その罪を洗い流されねばならない。私は手紙を取り上げ、ちりぢりになるまで引き裂いた。

とまあ、こんな感じの「大食い」にまつわる短いエッセーだった。
ひとつの食べ物に夢中になっているとき、他の一切の食べ物は存在しなくなるという部分はなかなか示唆的でおもしろい。


他に日本語訳が載っているサイトもないようなので、参考までに載っけておきます。内容の正確さを期して訳した文章ではないので、その点はご了承願いたい。

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